センシティブ・ブルー


 ひらりはらりと、きんいろの鱗粉が舞う部屋。
 その隅っこに置かれたベッドに腰掛けながら祈るような心持ちでわかちゃんと若葉色の翅をみつめる時間を、わたしとあおむしはあいしていた。



 ちいさなあおむしを肩に乗せ、手作りのお弁当(今日は暑いのでちゃんと保冷バックに入れてきた)を片手にわかちゃんのアトリエへと遊びにゆくのが、わたしの日曜日の過ごしかただった。
 チャイムは壊れ、シンクの水漏れいちじるしく、はてには床が抜けそうなおんぼろアパートの一室。――画室アトリエなんて呼び方は恥ずかしいからやめてとわかちゃんは言うけれど、彼女が暮らす油彩のにおい立ちこめる1Kは、わたしにとってまごうことなく画家の住まいだった。
「わかちゃーん」
 使い物にならないチャイムは無視して、塗装のはげかけたドアをばんばんと叩き声をあげる。大股な足音と床が軋む音が三回。耳障りな音を立ててドアがひらいた。
 風とともにわたしを包み込んだのは、油絵の具のかおりときんいろの鱗粉。
 ちい、と。少し掠れたわかちゃんの声がわたしの耳朶を揺らす。
「あおむしもきたんだね。いらっしゃい」
 靴を脱ぎ顔を上げて、一歩踏み出す。そこにあるのは窓際にたたずむ古びたイーゼル、大小様々のカンバス、筆にバケツに絵の具たち。むわんとした空気のなか、効きの悪い冷房が不機嫌そうに唸っている。
 ちらと見上げたわかちゃんの額にうっすら浮かんだ汗が、カーテンの隙間からこぼれた陽光を弾いてきらりとひかった。わかちゃんはきらきらしたものでできているなあ、なんて頭の隅で考える。
 暑いかと問われ、首を横に振った。保冷バックを半ば押し付けるように握らせて、
「はい、おべんとう」
「気ィつかわなくていいのに」
「だってわかちゃん、放っておくとごはん食べないんだもの」
 ため息混じりに肩をすくめてみせると、わかちゃんはばつが悪そうにわらった。口角がゆるく釣り上がると同時に首筋の皮が引き攣るように動く。喉元に浮き上がった細い骨を目にして、わたしは思わず唾を飲み下した。一瞬粟立った腕をなで付けて、軽く頭を振る。わかちゃんは受け取った保冷バックを開いて「たまごやきだー」なんてのんきに呟いていた。「ちゃんと砂糖たっぷりいれたからね」と口が回る。我が家の卵焼きはしょっぱくて、わかちゃんちの卵焼きはすこぶる甘い。
「ちいのぶんのお皿持ってくるね」
 わかちゃんはわたしに背を向けて、三歩先のキッチンにむかう。背中が大きくひらいた生成りのノースリーブに、色褪せたジーパン。男の子みたいな長さをした黒髪はいつも自分で切ってしまうものだからひどく不揃いだ。わかちゃんは今年で二十五になるけれど、洒落っ気も化粧っけもない。いわゆる成人済オトナの女性らしさが欠片も見当たらない。生活力は高校生コドモのわたしからみても、ぎりぎり及第点といったところか。
 ただわかちゃんは――緑の翅をもっている。
 肩甲骨から生える、きんいろの鱗粉を纏った若葉色の翅だ。日に透けるほどに薄く繊細で、深緑の翅脈が走っている。呼吸をするみたいにゆっくりとはためいて、そのたびにうまれるのは澄んだ風。きめ細やかな鱗粉は触れれば消えてしまうのだけど、目にするたびに指を伸ばしてしまうほどにきれいだ。
「なあに?」
「翅、きれいだなあって」
「ちいは来るたびにそういうねえ」
 わかちゃんは小さなテーブルのうえにお皿とお弁当、水をそそいだカップをふたつ置くと、スツールを指差してわたしに座るよううながした。
 腰掛けて改めてあたりを見回すと、先週来たときにあった絵がひとつなくなっていることに気づく。アトリエの一角を占拠するほどに大きかったカンバス。そこに描かれようとしていたのはわたしには解きほどくことのできない、幾何学模様と曲線の集合体、ぐにゃりと歪んだなにかの絵(なにかですらないのかもしれない。わたしにはわからない)だったと記憶している。分厚くぬりたくられた絵の具がかたちづくる凹凸と、そのうねり、唸り。うだる熱気の向こう側に広がる景色のような。数メートル先に見えるのに近づけば消えてしまう、アスファルトが放出するかげろうがつくるまぼろしのような。ただ、色だけが場違いに淡かった。パステルカラーの歪み、太陽を見つめたあと瞼を伏せると見えるシミみたいな模様。――そのなかで、混ざりけのない青と黄色の線が絡み合い、もつれあい、まるで鎌首をもたげる蛇のように存在していた。
 わたしにはわかちゃんの絵がわからない。それは幼い頃からで、それでもわたしは、わかちゃんが学校で描かされていた写生スケッチだとか、ときおり気まぐれに描いていたどこぞのキャラの模写イラストより(まわりの大人はそう言ったまねごとの方を評価していたけれど)、ずっとずっと、わかちゃんの絵に惹かれていた。なにがと問われても上手く言葉にすることができないけれど、すきだった。目にしたものひとつひとつ、ぜんぶおぼえている。
 そして、わかちゃんの絵がアトリエから消えるたびに、わたしは一抹のさびしさを覚えるのだった。
 先週、「まだ描き途中なの」とわかちゃんは言っていた。いつからか、完成したわかちゃんの絵を見たおぼえがない。たぶんタイミング悪く公募展やコンクールに出してしまったんだろう。卵焼きを頬張る。甘い。
「わかちゃん」
 喉を震わせるといがいがしていた。それでも声をしぼりだす。
「またあとで、絵描いて」
 立っているときも座っているときも、いつだってわかちゃんは背筋をぴんと伸ばしている。ただひとつの例外が絵筆をにぎりカンバスに向かうときで、そのとき限りは前のめりになるのだ。猫背というにははりつめた空気をまとういずまい。そのときの、わずかに丸められた背中の描くまろい曲線が、わたしはどうしようもなくすきだった。身体が呼吸にあわせてあえかに上下するのがわかる。耳をすませば心臓の音がきこえてきそうな気がする。いきてるなあって、染み入るように思える。なぜかとても安心する。だから。
 いいよ、とわかちゃんは笑った。白い膚に骨が透ける。肩のうえのあおむしがぶるりとふるえた。なぜかは知らない。

 *

 わかちゃんの背にみどりの翅が生えたのは、わかちゃんが大学卒業を控えたある日のことだった。わかちゃんは電車で二時間もかかるところにある美術大学の学生で、わたしは近所の公立中学生に通う生徒。もう、三年も前の話になる。
 はいた息が白く染まり、けれども吹き抜けるつめたい風からやわくなった土のにおいがする季節。わたしが新聞を取りに外に出ると、おとなりの家のポストの前で、ほのりと朝日に透けるみどりの翅が春のおとずれを告げるみたいにゆうらりはためいていた。
 その翅を目にしたときわたしは、わかちゃんの丸められた背中の裏側で胎動していたなにかが生まれた、あるいは芽吹いたのだと思った。そして、凍った外気にさらされた背中の白さと細さにひどく驚いたのだった。だって、わたしの知っているわかちゃんの膚はいつだって日にさらされて色づいていたし、背中をしなやかでありながらもゆるぎないもののように感じていたのだから。
 その光景に、わたしと肩のうえのあおむしは身じろぎひとつできなかった。
「わかちゃん」
 ようやっとしぼりだした声が、白くこごる。
「わかちゃん」
 もういちど名前を呼ぶとわかちゃんはこちらを見やり、まなじりをゆるめてふわりと笑った。
「ちい」
 掠れた声に導かれるように、わたしは理解した。
「わかちゃんのあおむしは、翅になったんだね」
 ものごころついたときから、ずっとわたしたちのかたわらにいるあおむし。とりたてて世話をする必要もなく、ときおりきまぐれに言の葉を与えればそれを食んでいる。触れることは出来るけれど、どうにも実体を感じられない不可思議な存在。それが翅になったのだ。こんなにもうつくしい翅に。
「蛹になったときに融け合ったから、一概にそうとは言えないけどね」
 なにやらわかちゃんは小難しそうなことを早口で言った気がしたけれど、わたしは翅に目を奪われていて、きいてやしなかった。
「さわってもいい?」
 わかちゃんはやれやれと言った風に息をつく。
「いいよ」
 恐る恐る手を伸ばし、表皮に指を滑らせる。やわらかくて、しっとりとしていて、すこしひやりとしている。
「わかちゃんの翅、すごくきれい。わかちゃんの色だね、わかば色だね」
 きんいろの鱗粉がひらりはらりと舞っている。触れると融けるように消えてなくなった。涙みたいだなあなんて思う。胸がきゅうっとした。
 わたしは知らなかった。お父さんやお母さんや先生に翅がない理由も、そこかしこで目にする、触れようとすると消えてしまうきんいろの粉の正体も。なにひとつ知らなかった。だから、なんのてらいもなく言葉を紡げた。「いいなあ、わたしもほしいなあ」言葉が口の端からこぼれる。地面にほとりと落ちる。
「ちいは、きれいって言ってくれるんだね」
 わかちゃんは独り言のようにつぶやいて泣きそうな顔でわらい、わたしの頭をぐりぐりとなでた。肩のうえのあおむしは、わたしが口の端からこぼしたあおい葉をゆっくりと食んでいた。
 町外れのおんぼろアパートの一室でわかちゃんが独り暮らしをはじめたのは、そのひとつき後のこと。それから三年の歳月が過ぎて、わたしは高校生になった。わかちゃんは、絵を描いている。

 *

 平日、わかちゃんは一日中アルバイトをしていて家にいない。わたしはと言えば家から自転車で30分の、可もなく不可もない学力の公立高校で高校生をしている。
 シャープペンシルのノブを頬で意味もなくノックしつつ、わたしはぼんやりと窓の外を見つめていた。クーラーで冷やされた教室の空気は肌寒いくらいで落ち着けなげに動いたり身を縮めてみたりするのだけれど、ごわつく割に薄っぺらい生地のセーラー服は隙間から熱を逃がすばかりだ。
 いっそ寝てしまおうかなんて思ったとき、ふいに、先生が手にした青い硝子片のようなもので黒板をぴしりと打ち据えた。
 世の大人たちが好んで振りかざす硝子片は、たとえるなら誰にも届かぬまま先細り消えていった悲鳴のようなかたちをしている。鋭利で、痛々しいかたちだ。ああまたかと思いながら、けれど先端の鋭さと純然たる青――混じりけのない絶対的な色に、わたしの身体はこわばった。 あれがなにだか、わたしは知らない。けれど逆らえず、怖いとすら思う。
 肩のうえのあおむしが身を丸めてふるえていたので、そっと机のなかに隠してあげた。臆病で弱虫なあおむしは、大人たちが振りかざす青をことさらに恐れている。まわりを伺うと、何人かがわたしと同じようにあおむしを宥めていた。もちろん、なるたけ先生の目につかないように(といって、大人はまるであおむしを見えないもののように振る舞うのだけれども)。
 だいじょうぶだよ、と言の葉をあおむしの口許に持っていってやる。ようやっと安心したのか、あおむしは葉っぱをゆっくりと食みはじめた。
 先生がもう一度硝子片で黒板を叩いた。しんと教室が静まり返る。
「あなた達にはいずれ、翅が生えてきます」
 教室の端から端までをねめつけながら、先生はゆっくりとした口調で話し始める。
「それは知っていますね? 見たことのあるひともいるでしょう。緑色の翅です。そうね、もしかするとあなた達は翅を『きれい』と思うかも知れない」
 直感的にききたくないと思った。この先をきいてしまったらなにかがおわってしまう予感があった。耳を塞いだら見咎められるから、わたしは気を紛らわすべく若葉色をしたあおむしのやわい表皮をなでた。表皮のむこうにある瑞々しさを感じようと指先に全神経を集中させる。
 それなのに先生の声は青みを帯びて、刺すようにわたしの耳に飛び込んでくる。
「けれど、翅は私達を空に飛ばしてはくれません。言うなれば、ただの飾りです。邪魔なだけです。電車に乗るにも、街を歩くにも、仕事をするにも、邪魔になります」
 咄嗟に耳を塞ごうとしたとき、はらりはらりと、どこから舞い込んできたきんいろの粉がわたしの頬をなでた。たまゆらの接触であったのに、心地のよいあたたかさが肌に染みる。誰かの翅からこぼれおちたのだろうか。だとしたらどこからだろう。わたしはそんなことばかりが、気になって。
 黄金色きんいろの粉、青色の硝子片、緑色のあおむし。世界はわからないことばかり。知らないことばかり。だった。このときまでは。

 *

 わたしは終業のチャイムと同時に教室を飛び出して、走って、走って、走った。どこに向かうわけでもない。帰るにしても急ぐ必要だってない。両親は共働きで家にいないし、わかちゃんだって今日はアトリエにいない。それなのに走っていた。しまいに喉が狭まって息が吸えなくなって、たまらず立ち止まり咳き込んだ。心臓の早鐘が内側から鼓膜を揺らす。呼気が落ち着いてくると、身体を今まで以上に重く感じた。
 ああ、と。熱気のなかにぬるい息をひとつ落とすと、額に張り付く前髪を後ろに追いやって雲ひとつない空を仰ぐ。視界一面の濃青色がわたしを押し潰そうとしている気がして、身体がひととき暑さを忘れ、震えた。
 青が孕む白熱が私の目を焼き尽くそうとする。思わずまぶたを閉じると、陽光の残像が白い点になり目の裏に焼き付いているのがわかった。花火みたいに弾けて、信号のように点滅して、ちかりちかりとまたたきが私の脳髄に飛び込んでくる。
 蝉の叫びがねっとりとした湿気の粒子の合間でわんわんと反響し、陽炎でアスファルトの向こうの景色が歪んで揺らいだ。世界が一斉にわたしの心を逆撫でする。口の端から滑り込んで来た汗が喉を干上がらせ、喘ぐような思考が泡沫のように浮かんでは消えた。
「あおむし」
 乾いた喉を震わせて、肩のうえで丸まっているちいさないきものの名前を呼ばう。ものごころついたときからわたしたちのかたわらにいる、やわくてもろくて弱い、臆病ないきもの。わたしの半身。
「いつ、蝶になるの」
 遠くないいつか、わたしとあおむしは蛹のなかでどろどろにとけあってひとつになって蝶になる。そのとき背中から生えてくるのがみどりの翅だ。ひかりをはらんで輝く、はかなくてうつくしい翅。
 今日の今日まで、愚かなわたしは知らなかった。お父さんやお母さんや先生、多くの大人に翅がない理由。そこかしこで目にする、あたたかいきんいろの粉の正体。知ろうともしなかった。
 荒く息を吐き出す。地面を見てしまうのは空を見たくないからだ。青を、見たくないからだ。大人達が振りかざす青。わたしたちに抗うことも逆らうことも許さない絶対的なもの。今日も明日も大人といういきものは、ことあるごとに青い硝子片を振りかざして、私たち子どもを黙らせる。
 青い硝子片。鋭利で無機質なそれは、毟り取られ凝り固まった蝶の翅。純然たる青の裏側で、棄てられたものがきいきいと、耳障りな声で哭いている。大人達には聞こえない。聞こえないふりをしているのかも知れないし、もはやどうでも良いのかも知れなかった。
 わたしもいつかああなるのだろうか。そんなことを考えた刹那、肩のうえでであおむしが若葉色の身体を震わせたので、だいじょうぶ、と口から葉をいちまい取り出し、その口許へもっていってやる。黙々と葉を食むあおむしを見つめながら、わたしは教壇に立つ大人の姿を思い出す。生えた翅を引きちぎり、黄色を捨てたひとたち。
 わたしにもいつか背に生えた翅を毟り取り、振りかざす日が来るのだろうか。
「わかちゃん」
 汗ばんだてのひらを、開いては閉じる。ぐちゃりと潰れた汗が膚に張り付いている。それだけだ。なにもない。黄金色のするどい光が、あの青に対抗できるような何かが、わたしの手のなかに落ちてくれば良いのに。
 そう思うけれど、わたしのそばにいるのは臆病なあおむしだけなのだ。

 *

 中学生になって家の鍵を持たされるまで、わたしは学校が終わってからの多くの時間を気の良いおとなりさんの家で過ごしてきた。
 幼い頃のわたしはとにかく口数が少なく、かしましい同い年の子どもたちが怖くてたまらなかった。そんなわたしを慮ってか、わかちゃんのお母さんはいつだってお菓子とお茶を用意してわたしを待ってくれていて、わかちゃんは部活が終わったあと息せき切って帰ってきてくれた。
 わかちゃんは、中高と陸上部に所属していて、日焼けと泥でいつも真っ黒だった。そんなわかちゃんがときおりこっそりとわたしの手を引いて部屋に連れて行き見せてくれるのが絵で。ときにはクレヨンと鉛筆(水彩は片付けが面倒だから嫌だとわかちゃんは言っていた)をふるう姿をわたしにみせてもくれた。
「わたし、わかちゃんのえ、だいすき。わかちゃんもだーいすき」
「私も、ちいがだいすきだよ」
 そんなやりとりを、わたしたちは幾度も繰り返した。
 ねえちい、知ってる? 記憶のなかのわかちゃんがささめく。とっておきの秘密を教えるように、青が怖いと泣いた幼いわたしをだきしめて。

 *

 日曜日。わたしはいつもより多めにお弁当をつくった。空は曇天で、青空が欠片も見えないことに安堵する。念のため傘を持ち、あおむしを肩に乗せて出かける。いつもより早足に進む。心臓の鼓動が歩調と競争するように早まる。水気を吸った重い風が地を這うように吹いていて、どこからか入り込みわたしの内側をざわざわとを揺らす。わかちゃんは今日もあのアトリエで絵を描いているはずだ。いつもと変わらず、翅を揺らしてドアの向こうにいるはずだ。
「わかちゃん」
 そんなわたしの願望は、古びたドアの前に打ち捨てられていたもの――引き裂かれたカンバスを見て砕け散る。
 わかちゃんの絵が、なきがらになってそこにあった。
「わかちゃん」
 ドアを開ける。するどい悲鳴のような声が、部屋の隅、六歩先の距離から響く。
「こないで!」
 身体を丸めて床に伏せるそのひとがわかちゃんであることを、わたしは一瞬認めることができなかった。
「ちい、こないで。おねがい」
 わかちゃんが泣いているのがわかってしまって、わたしとあおむしは立ち尽くす。しゃり、と硬質なものがすりあわさる音がする。
「ちいが、きれいって言ってくれたのに。こんなんになっちゃった」
 薄暗い部屋の床で、散らばった何かがきらめいている。それは、粉々になった硝子片だった。わかちゃんとおぼしき影を見る。その背には、なにもない。
「わかちゃん」
「こないで」
「わかちゃん!」
 靴を脱ぎ捨てる。大股で、一歩。靴下で硝子片を踏みつける。鋭い痛みが走る。かまわずもう一歩踏み出す、わかちゃんが見える。目が合う。
 青い硝子片に伸ばされたわかちゃんの傷だらけの指先を掴む。ごめんね。ごめんね。ごめんね。叫ぶみたいに繰り返す。わたしはわかちゃんの描く絵がすきで、わかちゃんの翅がすきで、わかちゃんが、すきで。でも、そればっかりだった。知らないふり、わからないふり、気づかないふり、そうしてずっと、わかちゃんの弱さから目を逸らしてきた。
「つらかったなら、捨ててよかったんだよ」
 捨てさせなかったのはわたしだけれど、言わずにはいられなかった。翅はきれいだ。でも、役には立たない。わかちゃんはわかりきっていたはずだ。
 ぎゅうと、わかちゃんをだきしめる。わかちゃんも弱々しくわたしを抱き返した。わたしの肩に額を押し付けて、絞り出すように声を放つ。
「わたしが、捨てたくなかったの。でも、捨てなくちゃとも思ってた」
 ぽつぽつと、わかちゃんは話だした。翅が生えた日、わかちゃんのお父さんとお母さんがすぐに翅を取るように言ったこと。翅をもっているだけでも白い目で見られるのに、そのなかでもことさらに、黄色の強い翅は、敵を多くつくるからと。そのずっとまえ、美大進学を決めたときから親との折り合いが悪かったこと。
「父さんと母さんの気持ちもわかるんだ」
 それでもひとは翅を持つべきなんだよ。黄色を捨てちゃダメなんだよ。わかちゃんは、涙と鼻水でぐちょぐちょになった顔を服の袖でぬぐいながら、つぶれた蛙みたいな声でいった。ねえ、ちい。それを教えてくれたのは、ちいだよ。なんて言う。
「ばか。わかちゃんの、ばか」
 わたしは言葉がみつからなくて、それこそ馬鹿みたいに何回もわかちゃんをばかと言った。ほんとうに、ばかだ。
「ばかだよ、ばかでいいよ」
 そんな応酬を繰り返し、いつしかか泣き止んだわかちゃんががびがびの声で苦笑混じりに返す。
「ねえ、ちい。私の翅、付け根は残ってるから。まだ、がんばれるよ。ううん、私頑張ってなんかなかったんだ。逃げたかった。逃げてた。特別な何かになりたかった。翅があればなれるかもって思ってたけど、違うんだよね。もっと、いろんなことできるようにならなくちゃいけないんだなって、やっとわかった。まだ遅くないってことも」
 わかちゃんの言うことはわたしにはまだよくわからなかった。けれど、だきしめたわかちゃんがあたたかくて、いいにおいがして、わたしは心底安堵して。
「じゃあ料理くらい、もっとできるようになってね」
 ちいさくそんなことを言ってみると、まったくもってそのとおりだねとわかちゃんはわらって言った。透けるような、笑顔だった。

 *

 あおってね、みどりのこともいうんだよと、いつの日かわかちゃんは言った。べそをかくわたしを前にして、その頃は滅多に取り出すことのなかった水彩絵の具を引っぱりだすと、パレットにふたつの色をとりだす。それはまざりけのない青と黄色。絵の具でくるくると、まぜて。

 そこにうまれたあおいいろを、わたしもわかちゃんも、ずっと忘れられずにいる。忘れたくないと、思っている。