繭に紅


 いつの春だっただろう。あたしとまゆかは桜のはなびらをつかまえるために、走って、跳ねて、手を伸ばし、踊るみたいにくるくると、ふたりで桜の合間を駆けていた。
 あおいだそこには、視界いっぱいにひろがる薄紅。はなびらはするりと指のあいだをすりぬけて、ひとひらも手のなかにおさまらず、果たして触れているのかすらわからない。
 すべてがまぼろしみたいで、ぼんやりとした気味の悪さが心の隅っこでたゆたっていた。うつくしいのにどこか怖くて、奇麗なのに寂しく、もの悲しい。幼いあたしは胸を占拠する矛盾した感覚に惑いながらいつしか足を止め、舞散る花びらのなかで立ち尽くしていた。
 そんなあたしの目に留まったのは、傍らのまゆかが、いつになく真剣な面もちで、頬を紅潮させてうさぎのように跳ねている姿だった。宙にささげるまなざしは潤み、けれど強い光を宿していて。あたしはそのただならぬ様子に、声をかけることをためらってしまう。どうしたのまゆか。まゆからしくない。
 思えばはなびらを追いかけはじめたのはまゆかだった。いつもはあたしの後ろについてくるだけなのに、走るのも好きじゃないくせに、どうしてあんなにも必死になっているんだろう。あたしもひとときとはいえ、なぜあんなにも夢中になって桜吹雪のなかを駆け回っていたのだろう。
 春風が髪をもてあそぶ。さざなみのような音とともに世界が白くそまる。カーテンのようにまゆかとあたしを遮って、声も、姿も、すべてを、さらってゆく。呼び止めなくちゃ、と閃くように思った。まゆかを、呼び止めなくちゃ。
 そう思った刹那、まっしろな世界のなかで桜のはなびらひとひらが、まゆかの両の手にほとりと落ちた。今まで追い求めていたのが馬鹿らしくなるくらい軽やかに、まゆかの両の手に包まれた花びら。それをまゆかは、ほうと息をつきながら胸に抱く。
「まゆ、か」
 ようやっと声を絞り出したあたしに、まゆかはゆっくりと澄んだまなざしをむけて顔をほころばせた。
「コウちゃん」
 あのね、と。まゆかがとっておきの秘密を教えるかのようにささめく。
「これはコウちゃんのしんぞうだよ」
 それは、ほんとうに一瞬のこと。
 まゆかは両手を口許にあてがって、いちど、細い喉を鳴らした。あたしは為すすべもなく、ただ、まゆかがあたしの心臓を飲み下すさまを、みつめていた。
 そう、あれはまごうことなくあたしの心臓だった。
 いつの春のことだっただろう。ただその光景だけがあたしの脳裏に鮮烈に灼きついて、今もずっと、消えないままでいる。

 *

 しんと静まり返った校舎二階。三年生の教室が並ぶこの階に、三学期、しかも二月下旬の今、生徒の影はほとんど見あたらない。上履きと床のこすれあう音だけがうつろに響いて、薄暗い廊下の果てへと呑みこまれてゆく。
 廊下の空気は未だ冬を閉じ込めたまま、人肌にあたためられることもなくこごっていた。指先も爪先もかじかんで、息がうっすらと白く染まる。あーあ、タイツを履いてくれば良かったな、なんて考える。なんでわざわざクローゼットの奥から、ハイソックスを引き出したりしたんだろう。寒いし、なにより晒された腿半分と膝小僧が総毛立って、醜い。
 ブレザーとカーディガンをかきあわせ、ぶるりと大きく身震いする。勝手に身体が丸まって猫背になる。さいあくだ。
「高崎」
 ふいに低い声で呼ばれ目を向けると、そこにはあたしのよく知る男子がいた。
東野とうの
 あたしたちが暮らす場所はどうにも不便な片田舎で、それゆえか、家の近くにある高校に進学する子がとても多い。あたしとまゆか、東野もその例に漏れず、小中高を同じくする、いわゆる『地元組』だ。
 東野はちらとあたしの膝あたりを見て、ぼそりと呟いた。
「くっそさむそーな格好だな」
「見んな」
 はいはい、と東野は小さく肩をすくめた。180センチを超える身の丈、加えて野球部で鍛えあげられたがっしり体型でありながら、仕草がどうにもこじんまりとしている。まるで、成長期前のちび東野(高校にあがるころまで、あたしの方が身長が高かったのだ)が、着ぐるみを着て動いているみたいだなと思う。そうだったら良いのに、なんて考えたりもする。だって、見下ろしてた相手に見下ろされるのって癪だもの。
「お前、大学決まったんだろ? あー、もしかして一ノ瀬探してんの?」
 一ノ瀬というのは、まゆかの名字だ。
「そのとーり」
「寝てたよ、教室で。最初お前かと思った、髪型似てるから」
 はは、とあたしは軽く笑ってみせた。そのままひらりと手を振って、一歩進む。
「んじゃ、ありがと。またね」
「なあ、高崎」
「なに?」
 思いもかけず呼び止められたのでひとまず顔だけふりむくと、東野は一瞬たじろぎ、言葉を探すように押し黙った。落ち着きなく指や足や口を動かした末、
「いや、えっと。そうだ。今年は、桜の開花がいつもより早いらしい。噂だけど」
 なんてことを、至極真面目な顔をして言った。
「なにその情報」
 あたしは思わず呆れてしまって、弾みに頬のうえあたりの空気が鼻から吹き出した。ぷふ、と間抜けな音がして、それがまた意味もなくおかしくて、でも大声で笑うのは憚られたから、両手でお腹を押さえて抑えつけた。東野には背を向けたまま、肩を震わせる。箸が転んでもおかしい年頃とはまさにその通りで、とりあえず、どうでも良いことと何も考えなくて良いことが一番笑える。
「何がそんなにおかしいんだか」
 ため息混じりの東野の声に、顔を見ぬままごめんと返す。
 ついでに、頭の隅で閃くように思い出したことがあった。
 あたしたちの高校は、田んぼばかりに囲まれた辺鄙な場所にあるし、俗にいう進学校ではないけれど、毎年学年には数人、国公立大学への進学を考える人がいる。思い出したのは、東野がそのひとりだということだった。幸い先生たちは教育熱心で、希望があれば個別指導もしてくれるらしい(あたしは三駅向こうの町にある塾に通っていたけれど)。
 この時期まで勉強をしているということは、恐らく国公立大学の後期試験を受けるのだろう。東野はいまだ、受験の最中なのだ。
 ちらと後ろを目線をくれると、東野は少し困ったような顔をして、所在無さげに突っ立っていた。
「東野」
「何だよ」
「ちゃんとご飯食べなよね」
「食ってるよ」
 そっか、とあたしはうなずいて、
「じゃーね」
 今度こそ歩き出す。東野と話したのは久方ぶりだった。いくら小中が同じでも、年を経るにつれてどちらともなくよそよそしくなっていたし、その上高校ではクラスも被ったことがない。
 適当な挨拶だけで済ませたほうが、良かったのだろうか。
 首を一度、勢いよく横に振ってみる。考えるのやめよう。頭が疲れるだけだ。
 そうだ、あたしはまゆかを探しにきたんだ。東野がまゆかは教室にいたと言っていた。F組。あたしとまゆかのクラス。もうすぐそこだ。
 教室前方の引き戸を開けると、一瞬にしてまわりの空気がたゆんで、あたしは思わず息を飲んだ。
 薄いカーテンが陽に透けている。教室は、赤らんだ頬のような色をした、やわらかいひかりに満たされていた。廊下の冷気に凍っていた身体がゆっくりとほぐれていって、同時にしみじみと、ああ、春だ、と思った。
 花の便りよりも東から吹く風よりも早く、ひかりが教室に春の欠片を連れて来ていた。冬のまま時が止まっているのは廊下だけ。思い返せば、目覚めて部屋の窓を開けたときからすでに、朝日に照らされた世界はうっすら春色に染まっていたのだった。だからあたしはタイツではなくハイソックスを履いて、コートも着ずに家を出てきた。ケータイだけをブレザーのポケットに突っ込み、手荷物なんて持たないで学校までやってきた。
 窓際の机に突っ伏す影に歩み寄る。胸あたりまで伸びた髪が、机のうえに花弁のように広がっていた。肩をそっと揺する。ゆっくりと顔を上げ、眠たそうに瞼をこするまゆかに、おはようと声をかける。まゆかはまだ夢うつつな様子で、小鳥のように首を傾げた。
「コウ、ちゃん……?」
「ケータイでないから、学校かなと思って来ちゃった」
 まゆかは学校いるとき、律儀にもケータイの電源を切っている。
 あたしはまゆかの前の席に腰掛けた。
「なにしてたの」
「お昼寝」
「学校にまで来て?」
「行くとこもやることもないんだん」
 あたしとまゆかは無事受験を終え、進学先こそ違えど、お互い四月から大学に通うことが決まっていた。
 進路が決まった生徒たちは、自主登校期間である今、学校の外で羽を伸ばしているわけだけれども、残念なことにここは片田舎、ちょっと気合いを入れて都会まで遊びに行こうとすると、お金も時間もかかって仕方がない。結局は数回遊んで財布を空っぽにした後、地元でだらだらする羽目になる。
「二月も終わりだね。もうすぐ、卒業だね」
 ぽつりとまゆかが言った。
「そうだね」
 おもむろにカーテンに指先を伸ばす。安っぽい生成り色の布は、ほわほわとした熱を纏わせていて、あたしが触れるとくすぐったそうに揺れた。
 春はもう来てしまったのだろうか。そんなことを考えると、つい先刻春のおとずれに感じたときめきはどこへやら、途端に心が廊下の空気のように冷えきって、カーテンを握る手に力がこもる。
 春が来る。春が来たら、あたしとまゆかは違う大学に通う。家から通うと言っても、大学生になったら今みたいに毎日顔を合わせることはなくなるだろう。きっと、まゆかの過ごす大学生活の大半を、あたしは共有することができない。まゆかはあたしじゃない誰かと会って、話して、笑いあって、過ごすのだろう。それが堪らなく、憂鬱だった。嫌で嫌で仕方がなかった。
 口の端から乾いた笑いが漏れそうになる。なんて惨めで、ひとりよがりな独占欲だろう。まゆかはあたしのものではないのに。
「コウちゃん?」
 まゆかの声にはっとする。何かを振り払うかのように、ひとりでに腕が動いて、カーテンを引いた。しゃっ、とレールが音を立てる。光が溢れて、そのまぶしさに目を細める。
 硝子を挟んだ向こう側には澄み渡った青空が広がっていた。体育の授業だろうか、校庭には走り回る下級生たちの姿が点々と見え、声が不明瞭に、けれど明るい響きをもって聞こえてくる。まだ風は冷たくとも、日ざしはきっとあたたかいだろう。
 廊下とあたしの心だけを置き去りにして、世界がどんどん春に染まってゆく。東野の言葉を思い出す。――今年は、桜の開花がいつもより、早い。
 桜。
 あたしたちの暮らす土地は、桜前線のおとずれが早いことで知られていたりする。そのせいか、どこにでも桜の樹が植えられていて、ことさらに学校には空いた場所という場所に樹が植えられているほどだ。
 校庭を囲むようにして並ぶ桜の樹は丸裸で一見寒々しいけれど、陽を枝にからめて屹立するそのさまはまぶしくもあった。桜の幹の内側で何かが張りつめていているのが感じられる。樹全体が大きなつぼみのようだ。或いは、蛹、或いは繭。内に内に篭りながらも、外に出る日に向けて備えている。動いていないように見えて、動いている。進んでいる。春を、受け入れている。
 あたしだけが違う。
 胸が、ぐしょりと疼いた。
「今年は、桜の開花が早いんだってさ」
 あたしの呟きに、まゆかが反応する。
「テレビで言ってたの?」
「東野が言ってた」
「東野君?」
「さっき会ってさ」
 ふうん、とまゆかは相槌を打ち、しばし考え込むような素振りをした。
 そして、
「コウちゃん。なんでわたしのこと探しにきたの?」
「なんで、って」
 まゆかの表情は普段と変わりなく、声の調子もただふと気になったと言う風で、問いに深い意味はないのかもしれなかった。
 けれど、うまく言葉を選ばなければならない。だってあたしは、なんだかおかしい。 普通じゃない。幼馴染みに、それも女の子にこんなに執着して、用事もないのにわざわざ探してまで会いに来たりして。
 あたしたちの年頃の女の子は、どこにいくにも連れ立て行動するのを好むから、そのなかであたしがまゆかと一緒にいたところでとかく言われることはない。
 けれど、あたしのこの、気持ち悪さと紙一重の執着をまゆかに知られることだけは避けたかった。このままの関係でいいから、先など望まないから、ただ繋がりを保っていたかった。
「コウちゃん」
 まゆかが、静かにあたしの名前を呼んだ。視線が交差する。まゆかの眸が、外の光を弾いて明るい茶色に変化する。
「ねえ、なんで、コウちゃんはいつも――」
 まゆかはそこで言葉を途切れさせ目を伏せると、ううん、と首を振った。
「なんでもない」
 そう、とあたしは掠れた声で返す。まゆかは何を言いかけたのだろう。訊く勇気が、持てない。
「あ、きれい」
 まゆかが目を留めたのは、あたしの爪だった。昨日急に思い立ち、丁寧に磨いて形を整え、三色のマニキュアを使ってピンクのグラデーション描いたネイル。春らしくて、気に入っている。
「でも校則違反だね」
 茶化すようにまゆかはそう言って、そのままじいっとあたしの爪を見ていた。まゆかのまなざしが爪先を侵して、むずがゆい痺れに身体が震えそうになる。そんな見ないで、ううん、本当は見て欲しい。だってこの色、まゆかが好きだと思って塗ったから。
 まゆかは幼いころから淡い色合いが好きだった。ピンクに水色、クリーム色。砂糖菓子みたいに甘い、女の子の色。
「コウちゃんってお化粧とかする?」
 まゆかがあたしの指先に触れる。指の腹はやわらかく、先刻まで眠っていたせいか火照っていた。
「ん、時々。お姉ちゃんに教えてもらったし」
 化粧は嫌いじゃない。学校ではしたことがないけれど、お出かけのときくらいはやってみたりする。歳のはなれた姉(今は家を出て一人暮らしをしている)がくれたお下がりの化粧品一式にお小遣いで少しずつ買い足しをしながら、ネットでメイク方法を調べたり、馬鹿みたいに時間をかけてネイルをしてみたり。色一つ、線一つで自分の顔の印象が変わる感覚には、ぞくりとする。――まゆかの前で化粧をしていたことは、なかったのだけれど。
 ねえコウちゃん、とまゆかが上目遣いにあたしをみる。まばたきを二回。そして、
「わたしに、お化粧教えてくれないかな」
 と。
 一瞬、まゆかがつぼみに見えた。花咲く一歩手前。春を待つ存在。
 寒気がした。それでもあたしは、いいよとしか答えられなかった。

 高崎倖たかさきこう、十八歳。あたしの心臓は、未だまゆかに食べられたまま。

 *

 一ノ瀬まゆかはあたしの幼なじみ。
 ご近所さん、数日違いの誕生日、似通った背格好、あたしたちは「まるで双子のようね」と言われて育ってきた。
 けれどあたしは知っている。まゆかとあたしが違うことを。
 あたしは二重だけどまゆかは奥二重だし、まゆかの虹彩は、光を弾くと明るい茶色に変化する。
 同じような髪型にしても、まゆかの方が髪がやわらかいから、ふんわりとした仕上がりになる。なによりまゆかはいつだって、あたしよりずっとずっときらきらとしていた。
 見た目のズレはそう気にならなかったけれど(まわりの大人は相変わらずあたしたちを双子のように扱っていたし)、内側のズレを意識しはじめたのは、小学校に上がるころのことだ。あたしは、あたしのなかに生まれた好みが、時折まゆかの好みとはズレていることに気づいた(まゆかはあたしの好みを否定するようなことを言ったりはしなかったけれど)。そしてそのズレが、まゆかがあたしの傍から離れていく予兆に感じられ、不安で仕方がなかった。
 それからあたしは、まゆかの好きなものを片っ端から憶えるようになった。好きな色に好きな場所。好きなお菓子に好きな歌。まゆかの好みを共有することで、あたしはまゆかに寄り添っていることができると思ってきた。
 そうして、ズレに対する不安が薄れて来たころ、まゆかが苦手なことは、あたしができるようになれば良いのだと思うようになった。まゆかは、細かな手作業がすこぶる苦手で、その上おっとりとしていて、ひとにものをはっきりと言うことができないけれど、そんなの些末なことだった。だってそれはすべて、あたしが補えることだったから。
 あたしは、まゆかのすべてが好きだ。――おそらくは、心臓を食べられたあの日から。
 あれが何かのまじないだったとしても、まゆかはあんな昔のこと、忘れてしまっているだろう。きっとまゆかは、今あたしがどんな気持ちでいるかも知らない。知らなくていい。
 もつれきった糸の固まりみたいな感情を持て余しながら、あたしは毎日、ベッドの上で毛布にくるまって赤子のように丸まり、まゆかのことばかり考えている。
 この感情は、恋というにはどうにも呪いじみてる。なんて、まどろみの淵で思う。眠りに落ちる。

 *

 昼さがりの教室で化粧なんて、なんかフキンシンだね、とまゆかは笑った。向かい合わせにくっつけた机の上に広げたのは、ポーチに入っていたあたしの化粧品。まゆかは興味津々といった風に、それらを覗き込んでいた。
 化粧を教える約束して数日が経ち、ついに三月。卒業式は既に数日後に控えていた。
 一対一の化粧教室。お互い家が近所なのだから、どちらかの家に行けばよいのに、なぜか教室ですることを提案したのはまゆかだった。学校で携帯の電源を切るようなこの子に、どんな心境の変化があったのかはわからない。けれど、まゆかが顔をほころばせているのをみると、そんなの考えなくていいかなと思う。
 あたしは、折りたたみの鏡を立ててまゆかの前に置いた。
「まゆかは肌がきれいだし、そんなしっかり化粧しなくていいと思うよ」
「そうかなあ」
 まゆかは、恐る恐ると言った風に手に取ったピューラーをかちかちとさせながら首を傾げる。あたしはいくつかの化粧品を選り分けながら、さりげなさをよそおい尋ねた。
「なんで、突然化粧?」
「んーと、大学生になるし」
 ふうん、と。流すような返事をしながらも、あたしの内側にはたちまちに嵐のような感情が巻き起こる。まゆかの言うことはもっともなのだけれど、どうにも、あたしのなかでまゆかと化粧が繋がらない。だって今まで一度も、化粧の話なんてしたことがなかった。突然、しかもこの時期に化粧を教えて欲しいなんて、人目を気にしているのだろうか。誰の目を、気にしているのだろうか。誰のために綺麗になりたいの。どうして、このタイミングなの。卒業式が終わったあとの、春休みじゃだめなの。ねえ、なんで。喉元までせり上がってくる疑問を、唾とともに飲み下す。
 下地には日焼け止め。早速塗りムラを作っているまゆかに苦笑しつつ、次はパウダーをはたいてあげる。時折解説をまじえながら、頑なに閉じようとするまゆかのまぶたと眸の際を、ブラウンのアイラインでなぞった(もちろん奥二重向けの引き方だ)。まつげをビューラーで持ち上げ、そのあとマスカラでひとなで。至近距離。長いまつげがひかりをまとって、手招きするみたいに揺れてあたしを誘う。かすかに震える白いまぶたに、きめ細かくきらめく肌。静かに繰り返される、呼吸。意識するたびに、身体が強ばりそうになる。そんなに手を加えているわけではないのに、まゆかがまゆかでなくなっていくような気がした。
「目、終わったよ」
 ゆっくりとまゆかが目を開ける。いつもよりくっきりとしたまなざしが、一瞬あたしに向けられたあと、鏡にそそがれた。
「目が大きく見える」
「大げさだなあ。そんなに濃くしてないって」
「まほうみたい」
 無邪気に弾んだ声に、いつものまゆかを感じた。
「ひとりでできそう?」
「……たぶん。そうだ、お礼にと思ってクッキー焼いてきたんだよ」
 まだグロスを塗ってあげていなかったのだけれども、まゆかは早速バッグを漁りはじめていた。食べ物を食べるならあとで良いか、とグロスだけを残して、あたしは化粧品をポーチにしまった。グロスだけは、こっそりとひとつ新しいものを買ってある。ほんの少し早い、まゆかへの誕生日プレゼントのつもりだ。使いやすいチューブ式。あたし自身のは濃い赤色だけれど、新しく買ったものは淡いピンク色。そっとポーチの影に隠す。まゆかは遠慮しいだから、あとでさりげなく渡してしまおう。
 まゆかが机の上で可愛らしい絵柄が描かれたタッパーを開く。そこには、五百円玉くらいの大きさをした少し形の不揃いな白いクッキーが、めいっぱいに詰め込まれていた。甘いかおりがふわりと立ちのぼる。
「はい、どうぞ」
「んじゃ、いただきまーす」
 割って食べるか迷ったけれど、丸ごといちまい口に放る。やわらかい生地が口のなかでほろろと崩れる。まゆかはおずおずと、
「……まずくない?」
 不器用なまゆかの作だけあり味にはあまり期待していなかったのだけれど、頬張ったクッキーはしっとりとした食感と甘さの加減が絶妙で、お世辞抜きにおいしかった。
「おいしいよ。ありがと」
「よかったあ」
 まゆかは胸を撫で下ろし、自らもクッキーに手を伸ばす。
「またいんのかよ、お前ら」
 教室のドアが音を立てて開き、呆れたような声が響いた。傍らのまゆかがぴたりと動きを止める。あたしは一言発したまま突っ立っている東野に手を振ってみた。
「東野じゃん。試験は?」
「試験は終わった。今日はいちおー先生に諸々の報告。合格発表は卒業式したあとだな」
「自信のほどは」
「やるだけやった」
 東野はのろのろとこちらに歩み寄りながら、ふと、目をしばたたかせてまゆかを見た。
「一ノ瀬、なんか違う?」
 更に一歩、近づいて「あ、けしょーか」と呟く。まゆかは押し黙ったまま、東野を見ていた。東野は今度は机上に置かれたあたしのポーチにちらと目をやって、
「なんつーか、女は良いよな。こういうので顔カバーできるしさ。俺なんてニキビだらけだっつーに」
「それ以前の問題じゃない?」
「うるせー」
 あたしのからかいを軽くいなして、東野は目線を落としたまま呟くように言った。
「お前らってほんと仲いいよなあ。もしかして、――つきあってんの?」
「ちがう!」
 叫ぶように声を放ったのは、口をつぐんでいたまゆかだった。同時、がたんと机が音を立てる。タッパーが小さく跳ね、端に置いていたポーチとグロスが床に落ちた。まゆかは立ち上がり、拳をにぎりしめて東野を見ていた。あたしは状況がわからず、ただ呆然とするしかない。
 数拍置いたのち、まゆかははっとしたように身体から力を抜いた。先刻とは打って変わって、沈んだ声を床に落とす。
「……そんなわけ、ない」
 まゆかの逆鱗というのが、幼い頃からあたしにはわからない。そもそもまゆかは滅多に声を荒げないたちで、感情のままに怒ることと、人と言い争うことを嫌う子だった。
 ただひとつわかっているのは、まゆかは大きな声を出したあと、必ず傷ついたような顔をするということだけ。ようやく頭の回って来たあたしはまゆかの頭をぽんぽんとなで、東野に向かって笑ってみせた。適当に、丸く収めなければいけない。だってまゆかが泣きそうな顔をしている。早く、慰めなければ。
「まあ、あたしが男だったらまゆかはお嫁さんにしたいレベルだけどねー」
 そのためには、口にしたくもない軽口だって声にしてやる。
 まゆかのクッキーをいちまい手に取り、東野に差し出した。大仰なまでに胸を張って、
「一枚くれてやろう」
 言外に、どっか行けと告げる。東野はまゆかの様子を見て何かを察したのだろう、軽く頭を下げ、少し強ばった顔をしながらもクッキーを受け取って、「ありがたきしあわせ」とおどけた。そして、くるりと回れ右をして、せかせかと教室を後にする。
「じゃーな。クッキーありがとな」
「おー」
 東野の足音が聞こえなくなった頃合いを見計らい、あたしは俯くまゆかの顔を覗き込む。まゆかは、赤くなるくらいに唇を噛みしめていた。
「怒ってる?」
「怒って、ない」
 まゆかはあたしから目を逸らしたまま、落ちたポーチを拾いあげる。
「コウちゃんは、女の子だよ」
 何かを押し殺したような声に、あたしの背筋を悪寒が駆け抜けた。
「うん、」
 うなずく。自嘲しそうになるのを堪えたら、顔が引き攣った。そうだね、と続けた言葉はたぶんまゆかに聞こえぬまま空気に融けて消えた。
――つきあってんの?
 東野の戯れ言を思い出す。馬鹿みたいな問いかけだ。そのくせ、妙に静かに言うものだから反応が遅れてしまった。
 まゆかは、何に怒っているのだろう。冗談でもあたしとそのような関係だと思われたことに腹を立てたのだろうか。でもこういったからかいは別段初めてではなくて、その度に適当に流して来たはずだ。からかいだというのはわかりきっていたから。
 それとも、東野に言われたから?
 同時に思い浮かんだのは、『なぜ教室なのか』という疑問だった。思えば先日、あたしは学校で東野にあったということを、まゆかに話したのだ。まゆかは、東野に会いたかったのではなかろうか。もしかすると、東野のことが好きなのかも知れない。
 まゆかがポーチを机のうえに置く。あたしは床に転がったままのグロスを手に取り、握りしめた。チューブがぬちゃりとした感触とともに歪む。
 たとえ、相手が東野でなくとも。いつかまゆかはどっかの誰かを好きになって、恋をして、結婚したり、するのだろう。目を逸らしていた可能性が、吐き気のような気持ち悪さを伴って、奥底から競り上がってくる。独占欲と執着、それに伴う自己嫌悪。すべてがごちゃごちゃに混ざりあって、腹のなかでのたうち回る。
 あたしはひとりで恋みたいなことをして、ひとりで傷ついて、考えて、考えるのをやめて、そんなことばっかりで、じゃあ、一体いつひとりじゃなくなるというのだろう。ううん、隣にいてくれるのがまゆかじゃないなら、ひとりでいい。ひとりでいるしかない。なんでまゆかなの。まゆかが、あたしの心臓食べちゃったから、あたしは。
 思い込みだろうか擦り込みだろうか恋ってなんだ好きってなんだ。考えるの、やめないと。身体がよろめきそうになる。気持ち悪い。
 やっぱり、あたしのこの想いは呪いじみている。
「コウちゃん、ごめんね」
 声に弾かれるように顔をあげると、まゆかが申し訳なさそうな顔をしてこちらを見ていた。
「なんで謝るの」 
 あたしは、どうにか笑ったつもりだ。
「そうだ、グロスはどうする?」
「……今日は、いい。だいじょうぶ」
 そっか、と返して椅子に座る。グロスを素早くバッグの奥底に捻りこんで、クッキーに手を伸ばす。先刻口にしたときはあんなにもおいしかったのに、味がしない。砂を噛んでいるみたいだった。考えるのを止めたいのに、考えることを止められない。
 わかってる、おかしいのはあたしなんだって。でも、どうしよう。抑えられなくなりそうだ。――まゆかがあたしから離れていく予感がするから。

 *

――コウちゃんは、女の子だよ。
 電気もつけずにベッドに仰向けになり、天井の染みだか影だかをぼんやりと見つめながら、ああ前にもそんなことを言われたな、と思い出す。いつだったか、どんな状況で言われたかは思い出せないけれど、そのときもまゆかは怒りながら泣きそうな顔をしていた。
「女の子、ね」
 幼い頃、コウってなんだか男の子みたいな名前、と両親にこぼしたことがある。そうかしら、と父母は首を傾げていたけれど、あたしは釈然としなかった。だってお姉ちゃんの名前は、響きも字面も女の子って感じだったから(『一姫二太郎』という言葉を知ったときには、妙な勘ぐりをしたものだ)。
 今となっては名前の由来を知っているから思うところはなにもないし、自分の名前が好きだ。けれど時折、もし男に生まれていたら、と考えることがある。「もし男だったら」と、先刻のようにおどけて口にすることもある。けれどそんなのは所詮タノシイ妄想の範囲内だ。世の中には、心と身体の性別が違っていて、それに悩み苦しむ人がいるけれど、あたしは心も身体もまごうことなく女だと思う。どこがと問われれば、上手く答えることができないけれど、そう思う。 
 バッグの奥底から引っぱりだしたグロスを目の前に掲げる。淡いピンク。桜色。白と赤のあいだ。中間色。女の子の、色。なのだけれど、薄暗い部屋でチューブのなかのその色はただただぬらりとした色彩をしていて、思わず唾を呑み込んだ。光のもとで見た可愛らしい色と、今眼前にあるなまめかしいきらめきが記憶のなかで重なって、思い出したのはテレビの医療番組かで見た、内蔵のなかの、ぬめっていて生々しくて、気持ちの悪い色だった。襞が波のように動き、粘液が時折糸をひくさまはなんだか卑猥で、それなのに、驚くほどに鮮やかなピンクをしている、内側の世界。それがあたしのなかにもある。
 おもむろに、空いた片手で下腹部に触れる。頭のなかを塗りつぶすぬらりとしたピンクは、すこぶるあたしにお似合いな気がした。あの色を気持ち悪いと感じるのは、きっとあたしに似ているからだ。
(まゆか)
 おそらく、次に会うのは卒業式だろう。そんなことを冷静に考えていると、別にまゆかと毎日会わなくても生きていけるんだな、と当たり前のことを大真面目に思った。ではあたしは、どうしたいんだろう。まゆかと、どうなりたいのだろう。どうありたいの、だろう。
 目を閉じると、瞼の裏のピンクが見えたような気がした。あたしのなかで、ピンク色のイキモノがぱっくりと口を開いて揺らめいている。ゆらゆら、ぬらぬらと、何かを探すように動いている。あれはあたしだ。ああ、気持ち悪い。吐き気がする。
 毛布を引っ掴んでくるまって、耳を塞いで丸まって、ああこのまま固まって乾いてしんでしまいたい、なんてたわけたことを思いながら、声には一度も出さぬまま、なんどもなんども名前を呼ぶ。
 うっすらと目を開けると、シーツのうえにグロスが転がっていた。まゆかの誕生日は卒業式のあとだ。何故だかもう渡せる気がしなくて、あたしは唇を噛み締めて、獣みたいに唸りながらすこしだけないた。

 *

 天候にも恵まれ、卒業式は滞りなく行われた。クラスメートが次々と涙を拭うなか、あたしは泣くタイミングを逸してしまい、どうにも居心地が悪かった。ただ、体育館から退場するときには、鼻の奥が少しだけつんとして、その痛みに慰められながら、心のなかでさよならと呟いてみる。さよなら。別れの言葉なのに、潔く、さらりとした響き。
 馬鹿みたいに誰も彼もと写真を撮って、寄せ書きに笑いあう。数日後の予定や今後の同窓会について話しながら、ここにあるのはさよならじゃないんだなあなんて思った。時折かわされる「またね」という言葉は、少しねっとりとしている。相手にぺとりとくっ付いて、細く長く糸を引くような響きだ。
「あれ、一ノ瀬さんは?」
 誰かの呟きをきいてはじめて、教室の中にまゆかがいないことに気づく。心臓が、ぎゅっと縮む。今日は朝に挨拶をかわしたきり、話す機会があまりなかったのだ。
 否、話すのが怖かった。またね、ではなくさよならを言われるような気がして。
「ごめん、ちょっと探してくる」
 けれどいざまゆかがいなくなっていると居ても立ってもいられず、話もそこそこに切り上げて、バッグを引っさげて教室を飛び出した。少し迷った末『どこにいるの』とメールする。いつも通り携帯の電源を切っていたら、意味がない。校舎内を歩き回りながら、いくどもメールを確認する。やっぱり切ってるかなと思ったとき、バイブが鳴った。受信ボックスのなかには『校舎裏にいるよ』との簡潔なメッセージ。あたしは急いでローファに履き替え、校舎の裏に向かう。校舎内と校庭の喧噪はどこへやら、静まり返ったその空間のなか、まゆかが桜の樹にもたれかかるようにして立っていた。
「コウちゃん」
 こちらに気づいて眦をゆるめたまゆかに駆け寄る。
 いつもより目許のくっきりとした面立ちに、はたと目を見開く。
「もしかして化粧、してる?」
「さっきトイレで、したの。化粧品はお母さんから借りた。何回か、やりなおしたけど……変じゃない?」
「変じゃない。かわいいよ」
 よかったあ、と胸を撫で下ろし、まゆかは笑った。
「コウちゃん。この前はごめんね。あと、お化粧教えてくれてありがとう。それを言いたかったんだ」
「――まゆか」
 あたしは思わず、まゆかを呼んでいた。
「どこにいくの」
「どこも行かないよ?」
 うそだ、と唸るように呟いて、首を傾げるまゆかに詰め寄る。あたしの眼光にまゆかは欠片も怯まなかった。ふいに、まゆかのきょとんとしたまなざしが解ける。眸に残ったのは、おどろくほどに静かな光だけだった。ぞくりとした。
 答えを恐れているのは、尋ねたあたしだった。
「……コウちゃんは、わたしのして欲しいことばかりするね」
 ひとり言のようにまゆかはそう言うと、今度はあたしに向かって
「言ってなかったけど、わたしほんとはね、県外の大学に行くんだ。一人暮らしするの」
 目を少しも逸らさずに、はっきりと別離を告げる。予感が現実に変わる。
「なん、で」
 一瞬にして干上がった喉を、たどたどしく震わせる。ナイショ、とまゆかは曖昧に肩を竦めた。
 気づくとあたしは手を伸ばし、まゆかの腕を掴んでいた。
「いかないで」
「なんで」
「まゆかが好きだから」
 滑り出た言葉に、自ら息を飲む。あたしは何を言っているのだろう。こんな簡単に言うことではなかったし、言いたいことでもなかった。あたしの意思に反して言葉が引きずり出されたかのような感覚があった。ふいに、数日前瞼の裏に見た、ピンクのイキモノを思い出す。
 身体が震える。膝が笑って崩れ落ちそうだった。だってあたし、言いたくなかった。だって、まゆかは女であたしも女で、執着していても独り占めしたくても、口に出すのだけはどうにか今ままで耐えてきた。それがあたしなりの、越えないと決めていた、大切にしたかった、一線だった。
 それにあたしは知っている。あたしのなかにある感情が、『好き』なんて一見ひたむきで便利な言葉で済ませられるほど、綺麗なものではないことを。誤摩化している、あるいは嘘を吐いているような心地がして、罪悪感が競り上がってくる。
 あたしはこんな見せかけの言葉で、まゆかを繋ぎ止められるとでも思っているのだろうか。まゆかと目を合わせられない。けれど逃げることもできず、そのまま俯いて立ち尽くす。
「……おまじない、ききすぎちゃったね」
 まゆかが一歩近づいて、あたしの頬にそっと触れた。あわく笑って、言葉を紡ぐ。
「わたし知ってるんだ、小さいとき、コウちゃんに好きな男の子がいたこと。わたしはコウちゃんが離れていくのが怖かった。けどあんなの、ただのおまじないだよ?」
 頬に触れたまま、空いた手であたしの左胸を指差す。
「コウちゃんの心臓は、ちゃんとここにあるよ。コウちゃんも、わかってるでしょ。だから、だいじょうぶだよ。もうわたしに合わせる必要なんてない。コウちゃんは、コウちゃんになれるよ。ずっと縛ったままで、ごめんね」
 口をひらいてみたけれど、言葉が出てこない。言いたいことも問いたいこともあふれてくるのだけれど、それはすべてぼやぼやとしていて形にならない。引き止めなきゃと思うのに、あたしの手のなかにはなにもなかった。
 今やまゆかはあたしの言葉なんて必要としていないようで、静かな眸のなかにたゆとうやんわりとした拒絶は、さよならという響きによく似ていた。
 コウちゃん、とまゆかがあたしを呼ぶ。ゆっくりと、一音一音を確かめるような呼び方だった。
 コウ。倖。あたしの、名前。

「コウちゃん。いままでありがとう」

 頬に触れていた指が離れる。あたしはぴくりとも動けなかった。背を向けるまゆかのスカートのプリーツがふわりと舞い上がるさまが、スローモーションに目にうつる。呼び止めなくちゃ、と閃くように思った。まゆかを、呼び止めなくちゃ。――けれど、呼ぶことができなかった。まゆかの後ろ姿が、校舎の影を抜け出して光に融けていく姿だけが、脳裏に鮮烈に刻まれる。校庭にたむろう人たちのざわめきが、別世界のものに感じられた。
「高崎」
 入れ替わりに歩み寄って来た人物に、あたしはのろのろと視線を向けた。
「東野」
「一ノ瀬と、喧嘩でもしたのか?」
 おそらく、まゆかとすれ違ったのだろう。まゆかがどんな顔をしていたのか問いたいのを我慢して、
「東野はなんでここにいんの」
「お前を探してたから」
「なんの用」
「こんな雰囲気で言いたいことじゃねーんだけど」
「いいよ、言って」
「いやいやいやお前は鬼か」
 慌てふためく東野を横目に、あたしはゆっくりと屈みこみ、膝に顔をうずめた。東野が去る気配はない。
「……東野」
「なに」
「あたしまゆかに、好きって言っちゃった。言うつもりなんてなかったのに」
 東野はしばし間を置いたのち、そっか、とだけ言った。それはとても短い返事なのに、なんだか優しく聞こえて。促されるようにあたしは吐き出していた。
「でも、まゆかは違うって。ごめんねって。あたしもなんか、嘘吐いたみたいな気分で。なんかもう、ぐちゃぐちゃで、わかんない。あたしって、なんなんだろ」
 涙は出てこなくて、それがまた惨めで、俯いたままくちびるを噛み締めた。
「お前、これから時間ある?」
 あたしの返事を待たず、東野があたしの肩を掴んで立たせる。馬鹿みたいな力だった。呆然としていると、東野はただ「来い」とだけ言って、あたしの手を引く。大きな手だった。

 *

 東野に引きずられるようにして連れて行かれたのは、学校から歩いて数分のところにある美容室だった。あたしが怪訝な顔をしているのを見て、東野が説明する。
「知り合いのやってる美容室。俺は使ったことないけど、悪い評判はきいたことねーから大丈夫」
「いや、そうじゃなくて。なんで、美容室」
 はーと東野が大仰にため息を吐く。
「お前、いっつも気づくと一ノ瀬と同じような髪型にしてるだろ。今もだけど。まずそれ、やめろ」
 どきりと、した。
 東野は店のなかに入ると、知り合いとおぼしき人となにやら言葉を交わしていた。ガラス戸の前で立ち尽くしていると、手招きされる。仕方なく店の中に入ると、真っ白な内装に一瞬目がくらんだ。
「えーと、じゃあ色選んで。髪型も」
 東野に髪色のサンプルと雑誌を投げるように渡され、そのうえじっくり見る間もなく「早く」と急かされるものだから、あたしも半ばやけくそになってきて、適当なものを選んでやった。
 鏡の前に案内され、椅子に腰掛けると、東野がこちらに歩み寄って来て、にやにやとしたまなざしを向ける。なんだか腹が立って来て、あたしはむすりと言葉を放った。
「こんなの、ただ気休めだよ」
「気休めの何が悪い。お前、考え過ぎ。形から入るのも大事って言うだろ」
「でも」
「いーから」
 東野のはっきりとした物言いにあたしは面食らってしまって、そのまま美容師さんにされるがままになる。薬液の臭いが鼻をつく。ぺとぺとと髪に液が塗られていく。茶色というより白っぽい液の色を眺めながら、やけっぱちとはいえ随分明るい色を選んでしまったのではと内心頭を抱えた。けれど、高校も卒業したし、頭の色でそう咎められることもないだろうと結論付ける。美容師さんはあまり喋らない人のようで、あたしはうとうととしながら、髪が液で重くなってゆく気配だけを感じていた。
――気休めの何が悪い。お前、考え過ぎ。
 東野の言葉が、ゆっくりと自分の内側の奥底に着地する。考え過ぎ、なのだろうか。何を考えすぎているのだろう。過ぎた考えを取り除いたら、そこに残るのは何だろう。
 塗布のあと二回ほど機械で頭を覆われたかと思うと、今度は洗面台のほうに連れていかれ、髪をすすがれた。鏡の前に戻ったときには、黒かったあたしの髪は、明るい亜麻色に染まっていた。驚く間も与えられぬまま、胸に届くほどの長さだった髪が、ざっくりと切り落とされてゆく。あれよあれよというまに顎のラインで切りそろえられた髪は、もう一度すすがれたあと、丁寧なブロウによって丸みを帯びたラインを描いていた。
 まばたきを繰り返す。
 確かになるほど、今までのあたしではないかのようだった。
 はいおわり、と美容師さんが口をひらいて、あたしを椅子から立つように促す。受付前のソファに座っていた東野がこちらに気づいて、くしゃりと笑った。
「良い感じになったじゃん」
「そうかな」
 じゃあ、と東野があたしの背を押して店の外に出す。
「行ってこいよ。近いんだろ、一ノ瀬の家」
「お金、」
「後で返せ」
 180センチの巨体を見上げる。小さいときから変わってないけれど変わった東野は、あたしを見下ろしながら早く行けと顎をしゃくった。身体が、ぶるりと震えた。
 ありがとう、とやっとのことで声にすると「いーから」とぽんと押し出される。二、三歩よろめいて、あたしは駆け出す。振り向かないで、走る。

 *

 頭が軽い。首筋を風がなでてくすぐったい。視界の端に映る明るい色に目を細めた。やっぱり、こんなことだけで、そもそもこんな短時間で自分が変われたなんて思えない。けれど、驚くほどに心も足も軽くて、何も考えずにただ走る。桜を追いかけていたあのときに戻ったかのようだった。

――? コウ ?ってなんだか男の子みたいな名前。
 幼いあたしは、なぜそんなことを口にしたのだったか。確か、男の子――そのころあたしが好きだった子――に、何気なく「男みたいな名前だよな」と言われたのだ。封をするように忘れていた記憶が蘇る。悪気はなかったであろうその言葉に、幼心ながらあたしは傷ついてしまって、俯いてくちびるを噛みしめていたら。
 ぽかり、と。まゆかがその子の頭を拳で叩いたのだった。まゆかはおとなしくて、争いごとが嫌いで、語気を荒げることのない子だけれど、そのときは目にわかるほど全身で怒っていて、いくどもいくどもその子を叩いていた(叩く力は大したことがなく、相手に怪我はなかったのだけれど)。顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、コウちゃんにあやまって、と叫ぶように繰り返すその姿は、その男の子にとっても衝撃だったのだろう、先生に引きはがされたあと、神妙な顔で謝られた。
 コウちゃんは、おんなのこだよ。と、そのときもまゆかは言ったのだった。あたしの手をぎゅうを握りしめて、まっすぐなまなざしをむけながら。
 きっと、いつだって、守られ補われていたのは、あたしの方だった。
 過ぎた考えを取り除いたら、そこに残るのは何だろう。言葉にならないものばかりがそこには残っている。
 家の前に着く。チャイムを押すのが面倒で、幼い頃のように声を張り上げる。
「まゆか!」
 聞こえないなら、何度だって呼ぶ。
「まゆか!」
 二階の窓が音を立てて開く。視線がまじわる。
「コウ、ちゃん……?」
 窓際からまゆかが離れ、ぱたぱたと階段を降りてくる音がした。ドアが開き、つっかけは履いたまゆかが顔を出す。
「どうしたの、その髪」
「えーと、イメチェン……?」
 思えば、ここに来て何をするか少しも考えていなかった。まだ化粧を落としていないまゆかの顔を見て、あ、とひらめいた。
「せっかく化粧してるのに、くちびる忘れてる」
 渡せないと思っていたくせに、未練がましくバッグの底に入れてきたグロスを取り出す。
「この前渡そうと思ってたんだ。ちょっと早いけど、誕生日プレゼント」
 まゆかはあたしのてのひらの上のグロスを見つめ、つと目を逸らし消え入りそうな声で「つけて」と言った。あたしは唾を一度呑み込み、いいよと答える。目を伏せこちらに向き直るまゆかの頬に触れ、くちびるをゆっくりとグロスでなぞる。愛らしい桜色のきらめきが、くちびるに乗るとなぜだか艶かしくどきりとしたけれど、ピンクのイキモノを思い描いたときのような嫌悪感はなかった。否、不思議とあのイキモノへの嫌悪感も、霧散していくような心地がした。そしてちらりと、キスしたいな、なんて思った。しないけど。
「目、開けて。『んーま』ってやってみて。そうそう」
 上唇にはみ出たグロスを、親指でぬぐってやる。親指がじんとする。指先から内側に向かってひかりが生まれて、溢れて、血液のごとく身体中を駆け巡る。心臓がばくばくしている。頭がひかりに塗りつぶされて、真っ白になりそうだった。世界が、きらきらしていた。
「まゆか、」
「コウちゃん、」
 同時に名前を呼んでしまい、黙り込む。どう言葉を続けようかと、考える。
 好きだと口にするのはためらわれた。そんな言葉では足りなくて、かといって、言葉を重ねれば表せるものでもない気がした。だから今は、シンプルに、
「会いにいっていい?」
 と問うた。まゆかは一瞬顔をくしゃくしゃにして、息を吐き出すように言った。
「……いいよ。待ってる」
 どちらともなく手をつなぐ。小さくて、あたたかくてやわらかい手だった。
「あ、桜」
 まゆかが弾んだ声を放ち、指をさす。
 向かいの家の塀から顔を覗かせる桜。その枝のひとふりに、花がふたつ、寄り添うように開いていた。
「コウちゃん、春だね」
 まゆかがゆっくりと顔をほころばせる。眸がきらめく。頬が淡く紅潮している。きっとあたしの頬も赤い。あたしは考えるのをやめて、ただ、あふれる感情をそのまま顔にのせて、
 そうだね、とこたえ、わらった。