カントコトロ


 ひどく狭い駕籠かごのなか、リムセは膝を抱え丸まっていた。息を細く吸ってゆっくりと吐きだすのを繰り返す。
 畳表に隙間なく囲まれた四方。視界は闇に閉ざされ、ひとかけの光もみだせない。頭が痛むのは幾度も天板にぶつけたからだ。右に左へ身体を振られ続け、みぞうちはむかむかするし、額には脂汗が滲んでいた。冬に差し掛かった季節の空気が汗を冷やして寒気を誘う。
 寸刻前、見た目だけは立派な駕籠を前にして浮き足立っていた気持ちはどこに行ってしまったのか。早く出たくて仕方ない。
 逃げ場を求めて顔を膝にうずめると、衣からあおいにおいがくゆった。
 刺草いらくさの繊維を紡ぎ織った布から成る、額布と長衣、羽織。これらはリムセたち“北の民”の伝統装束で、養母エムシがこしらえてくれたものだった。
 藍で染められた衣には、白糸で精緻な魔除け刺繍がほどこされている。
 藍の色は、北の民が尊ぶ色――聖色のひとつ。濃淡によって更に分類され、なかでも浅葱あさぎは風を、はなだは水を、かちは夜をあらわす。風と水と夜は、北の民が『清きもの』とし崇めるもの。祭礼の際北の民は藍色を身にまとって、自らも『清きもの』になる。
 藍染のかおりは、緑波たつ草原のそれと似ている。草のうえに寝そべってうららかな日ざしをうける自分を思いえがくと、わずかに閉塞感がうすれ、気持ち悪さがやわらいだ。
 先導する養母と駕籠かきたちの足音が響いている。
 一行がむかうは、広大なシラカンバの森。森の名を、カントコトロ。
 太古、日神おわす南の地から追いやられた人々は、月神に加護を乞うた。これにこたえた月神は人に霊樹シラカンバを与え、人はシラカンバの森カントコトロを守ることを誓った。
 シラカンバは北の民にとって『藍』とならんで聖色とされる『白』を宿す樹で、闇を祓い邪を退ける、守りの力を持つ霊樹。そんな樹でなりたつ森は聖域であり、常人ただひとはみなひとしく、十の歳をむかえたその日にようやく、立ち入ることを許される。
 十歳の誕生日。それは、太古のうけいに従って、シラカンバの加護を得る日。そして、北の民の一員としてカントコトロを守ることを誓う日だ。
 日暮れとともにこどもはカントコトロへとむかう。そして『御使い』という月神の眷属に導かれ、こどもは、リムセは。夜明けまでにつがいとなるシラカンバを選ぶのだ。
 選ばれた樹を、選んだ者の盾樹しゅんじゅと呼ぶ。一人と一本がつながることで、互いを守る力はより強くゆるがぬものとなる。月神との誓約はこうして受け継がれてきた。
 膝を引きよせなおすと、腕にかかえた帯布が顎にあたる。リムセの額布とそろいの紋様を縫いとった帯布――リムセが養母に教えられながらしつらえたもの。闇のなかでかろうじて浮かびあがる白い縫い目は不揃いで、お世辞にもうまいとは言えない。実際、エムシには何度も針使いを怒られたし、指には山ほど傷をこさえ、仕上がるまでたっぷりふた月もかかってしまった。リムセは根気強いたちではない。それでも投げださずにつくったのには理由がある。理由と、ねがいが。
 帯布をいだく手に力をこめる。この帯布は、盾樹となるシラカンバに巻くためのもの。リムセにとっては、それ以上に意味のあるものだった。
 身じろぎした拍子に、身につけたしろがねの髪飾りと腕輪が、しゃらんと澄んだ音をたてた。
 その音がゆっくりと耳から内側へとしみこんでいくのを感じながら、リムセは祈るように目をふせた。

 *

 駕籠が地面に降ろされ、畳表があげられた。冷たく清らかな銀糸の風がリムセを出迎える。そっと吸いこめば、清涼な空気が肺腑を満たした。
「リムセ、降りなさい」
 しわがれた声とともに差しのべられたのは、節くれだった養母の手だった。その手をとって駕籠を踏みだすと、つまさきから森の空気にとぷりとつつまれる。衣からくゆった藍のかおりが、あるべき場所へとかえるように、ふわりと空気にとけた。
 顔をあげたせつな「あかるい」とリムセは思った。森に火は持ちこまぬ決まりであるから、灯りはなにもないはずだ。けれども、あかるく、まばゆい。
 すぐにリムセは得心した。ここは聖域、この森の闇は駕籠を満たしていたものとはちがう。そもそもこの森を満たすのは闇ではないのだ。まわりに溶けこんでいるのは、髪の色ではなく衣の色だった。
 風が吹き、胸元でしろがねの首飾りがきらめく。リムセははやる胸をおさえながら風のゆくえをたどり、息を飲んだ。
 目の前に立ちならぶのは白い柱。否、シラカンバの樹だ。月神より人に与えらし霊樹。流星の欠片より芽吹いた、地上にあるはずのないもの。天上の奇跡。
 聖なる色に愛された樹々は、うすぎぬのようなひかりをまとっている。そのひかりを弾いてしろがねはかがやき、やみは解きほぐされよるに転じているのだった。
 握った手をほどきふらりとシラカンバに歩み寄ると、幹に走る横線――皮目が目にとまる。そのかたちはさながら、ゆるやかに閉ざされたくちびる。皮目の紡ぐ細い呼気がいくえにも重なって、森の濃厚な空気を織りなしている。
 言葉をなくしたリムセが森を見つめていると、遠くから軽やかに駆ける影があった。優美な曲線をえがく角をもつ白い牡鹿。御使いだ、とリムセは直感した。
 エムシが手をあわせ、深く頭を垂れる。
「お久しゅうございます」
 ええ、とこたえたのは若い男の声。リムセがまばたきをしたたまゆらに、牡鹿は青年になっていた。髪も肌も衣も処女雪のごとき白で、まなざしだけが色を有している。その色は、にごりのない清廉な銀だ。
 ちらと、青年はその眸でリムセを一瞥する。
「その娘は」
 むけられた双眸が、一瞬鈍色にゆらめいた気がした。
「私の養い子です。リムセと申します」
 エムシに促され、リムセがあわててお辞儀をすると、青年は整ったかんばせにゆるりと笑みをはいた。
「ではいきましょうか、リムセ」
 手を差しのべられるのだと思っていたのに、青年はきびすを返して森のほうへとむきなおる。急に心細くなってしまって、リムセは二の足を踏んだ。
「リムセ」
 呼ぶ声にふりむくと、養母のしわに埋もれた深い色のまなこが自分を見ていた。厳しくもやさしい、リムセの大好きなまなざし。リムセは、そっと唇を噛みしめ帯布を抱え直すと、まなじりをゆるめてほほえんでみせた。
「いってきます、エムシばばさま」

 *

 リムセは視線をめぐらせながら、シラカンバの間を跳ねるように歩く。舞うようにくるりと回ってみたりもする。森の地面はやわらかく、草履をふわりと受け止めた。
 すれ違うシラカンバには帯布が巻き付けられているものもある。大方の樹は幹が太く高さのあるものだ。盾樹と人の生きすじは一心同体だと考えられている。ゆえにリムセも、エムシに「強く長生きしそうな樹を選びなさい」としつこく言いきかせられてきた。
 シラカンバのまばゆさに慣れたリムセの興味をひいたのは、森の空気だった。五感に伝わってくるものが森の外とまったく違うのだ。
 森は音にあふれている。虫の音に鳥の声、枯葉のささめき。きめ細やかな音の粒子が小雨のようにふりそそぎ、さざなみのように耳をくすぐる。であるのに、まごうことなく静かだった。静かだと感じた。
 ふと、リムセは立ち止まる。虫の音も鳥の声も馴染みある音だったが、ひとつ知らない音があることに気がついたのだ。絶え間なく鼓膜をゆらすかすかな音――かぎりなく静にちかい、動の音だった。
「リムセ?」
 青年が振り向いたのを「まって」と制すと、目をふせて耳を澄ます。その音は高く涼やかで、鈴の音に似ていた。或いは小川のせせらぎにも。音の源はひとつではなく、様々な方向からリムセの近くに在る一点に集まってきているようにきこえる。ちりちり、さらさら――とくん、とくん、と。
 なぜだろう。はじめて耳にしたはずのその音に、懐かしさを覚えた。
「リムセ」
 青年の声に弾かれるように目を見ひらくと、銀色の眸がこちらにむけられていた。
「盾樹を決めたのですか?」
 青年の問いに、首を横に振る。そうですか、と青年は答え、
「樹をみつけたら、声をかけてくださいね」
 またきびすを返す。置いていかれそうな気がして、リムセはあわてて歩を早めた。そして、歩きながら考える。あの音はきっと、
(シラカンバの、心音)
 木の根が地中深くから水を吸いあげ、脈打つ音。それが青年の周りにあつまり、たゆたっている。彼が御使いであるがゆえだろうか。
 リムセは数歩前を進む青年を見やる。白い髪は風に涼やかにゆれ、歩く所作は洗練されている。身体は華奢にみえるもののしなやかで、先刻の牡鹿の姿を彷彿とさせた。今は後ろ姿しか見えないが、そのかんばせと言ったら村の若衆など比べるのもおこがましいほどの美しさだ。すらりと通った鼻筋に形がよく薄い唇。そして柳眉の下にある、長い睫毛にかこわれた銀の眸。
 御使いは神に選ばれたシラカンバの魂だ。樹という身体うつわに縛られず、自由に姿をとることが出来る。
 人のかたちをしていても、目の前の青年はひとではない。シラカンバの化生であり、神の使いだ。
 思い出されたのは、駕籠を降りるときに差しのべられた養母の手だった。エムシはいつだって、リムセのそばにいてくれる。リムセの考えと想いを、大切に扱ってくれる。手をとってくれる。
 なんの根拠もなく、前を歩く御使いもそう接してくれる気がしていたのだ。そうして、欲しかったのだ。けれども実際、御使いはリムセに背を向けほとんど振りかえらぬまま歩いてゆく。こうして距離を置かれているのは、御使いにとってリムセは好ましくないからではなかろうか。そんな想いが胸をよぎり――リムセは視線を落とした。
 胸元には首飾りと、紐に連ねられた小さな石笛がぶら下がっている。盾樹を見つけたら、これを吹いて森の外で待つエムシたちを呼ぶのだ。
 笛を握りしめる。リムセは『あること』を決意して、この森へとやってきた。けれども、ゆらぎそうになる。ちらちらと周りのシラカンバに目をやってしまう。
(わたしの、盾樹)
 青年は振り返ることなく進んでいく。腕が動いて袖がゆれる。のぞくのは、すべらかな手。リムセはただ見つめる。あの手はあたたかいのだろうか。そもそも、触れることはできるのだろうか。白く細く長い指。触れたいと思った。けれども、手を伸ばすことはできなくて、唇を軽く噛みしめた。
(わたしはずっと、)
 リムセは顔を上げる。とんと地面を蹴ると青年の横に並んだ。遥か上にある顔をのぞきこむ。
「てっきり御使いさまは、村のじじ様みたいにしわくちゃで、長いおひげをもっているのだと思っていたの」
 青年は話しかけられたことに驚いたようだったものの、苦笑を浮かべながらもやわらかに答えた。
「僕は若木ですから。御使いとは名ばかりで、君の倍ほどしか生きていないのですよ」
 リムセはそっと尋ねる。
「あなたも、この森のシラカンバのどれかなのよね」
「そういうことになりますね」
 青年の眸に影が揺らぐ。鈍色を垣間見る。それでもリムセは問いかけた。
「いつから、御使いさまになったの?」
 御使いはやわらかな笑みをたたえたまま、曖昧に肩をすくめた。
 足を止めることなく進む青年の衣の袖に、リムセは手を伸ばす。触れる。指は通り抜けることなく生地を掴み、その事実に少し驚いた。
 あの、と。青年の眸をまっすぐに見て、声を絞り出す。
「わたしのこと、」
 リムセは立ち止まった。出かけた言葉とともに、つばをごくりと飲み込む。引き止められた青年は、怪訝そうに眉をひそめた。リムセ、と呼ぶ声にはこたえない。あわせた目は逸らさない。ふるえる唇を、動かす。
 森に響くは、幼くも凛然とした声。

「わたし、あなたがいい。あなたに盾樹になってほしい」

 その言葉は、森のなかではひどく異質な響き方をした。小雨のように降りしきる音のなか、空気を切り裂き一直線に青年へと向かう。一羽の鳥が大きな羽音とともに飛び立った。風が唸り、木の葉が舞い上がる。
 一瞬つむった瞼を持ち上げると、青年はひどく冷ややかな表情を浮かべていた。
「――知らないのか?」
 低く紡がれた言葉は、先刻までのものと口調も響きも違う。びくりと身体が強ばる。そのさまを見た青年は興ざめしたように視線を逸らすと、気を取り直したかの如くやんわりとした声で言葉をつづけた。
「やめておいた方が良いですよ。知っているでしょうに」
 やわらかであるのに、頑なな声だった。リムセは「どうして?」とつめよるけれど、青年はリムセの手を振りほどくと背を向けて数歩距離を置き「ほら、あの樹はどうです?」などと他のシラカンバを指さしたりする。

「あなたがいい」

 唇を引き結び、拳を握りしめ声を放つリムセを見やって、青年は深く嘆息すると、眉を歪めた。
「この姿かたちに惑わされているだけだ」
「ち、違うもん」
 確かに青年は美しく、リムセだって見蕩れはした。けれど、リムセにとって青年の容姿など、どうでもよいことだった。
「何が違う」
 苛立たしげに吐き捨てて、青年はリムセを睨みつける。研ぎすまされた刃のように鋭い視線に気圧されそうになる。それでも足腰に力を入れて踏ん張った。
「わたしは、ずっと、」
 しどろもどろに言葉を紡ごうとした刹那。
 ぱか、と。青年が脳天からまっぷたつに裂けた。蛹が割れたかのように、或いは蛇が脱皮するかのごとく。リムセは声にならない悲鳴をあげた。最早青年の容姿は皮一枚となり地面の上で衣のようにしわくちゃになっている。そして、皮のなかから膨らむようにして出てきたのは ――白い蛇。身丈がリムセの五倍ほどもある大蛇だった。細く鋭い鈍色の瞳孔は、苛立ちと怒りに満ちている。思わず後退しようしたものの、足からすとんと力が抜けてそのまま無様に尻餅をつく。指先ひとつ動かせぬまま、まさしく蛇に睨まれた蛙のごとく呆然としていた。蛇の顎が大きく開き、ぬめった紅の色が頭上に広がる。鋭利な牙に、先の割れた毒々しい舌。それが迫ってくる。
 そして――霧散した。御使いの気配がかき消える。

「僕の身体を、夜が明けるまでに探してみろ。見つけられたら盾樹になってやっても良い」
 
 玲瓏とした、けれども憤怒に満ちた声が聞こえる。

「もちろん、他の樹を選ぼうとも構わない。むしろ、とっとと選んでその笛で迎えを呼ぶんだな」
「いや!」
 反射的に放った声に、青年が不愉快げな嗤いを漏らした気配がし、それを最後に御使いは消えた。
 しん、と。痛い程の静寂が耳朶を貫く。シラカンバの心音が聞こえない。かわりに聞こえるのは、枯れ葉がゆれるもの悲しげな音に、鳥の声と羽ばたきだ。それらが森の静謐な空気を侵し、壊してゆく。虫の音すらもおどろおどろしくきこえた。シラカンバの心音は静と動のあわいを埋め、有音のしじまを成していた。それがなくなった今、『夜』は水と油のようにまっぷたつだ。
 ちらと屹立するシラカンバに目をやる。シラカンバは相も変わらず淡いひかりをまとっている。けれどそのひかりすら、まるで刃の輝きに思えた。ひとつのものが消えただけでこんなに感じるものが変わるのか。
 リムセは今、紛うことなくひとりぼっちだった。
 『夜』は清らかであると同時に、その実排他的でもある。穢れを許さないのだ。たとえ藍色の衣をまとって『清きもの』に扮したとしても、カントコトロの森という聖域にとって人間は異質なものなのだと身をもって思い知る。
(でも、行かなきゃ。探さなきゃ)
 抜けた腰をどうにか立て直そうと、地面に手を付く。身体が震えているのがわかった。あの大蛇は恐ろしかった。そして今の状況も怖くて仕方がない。追い立てるように髪をなぶる風は冷たく、鳥肌が立つ。
 笑う膝を黙らせてようやっと立ち上がり、足を引きずるようにして歩を進める。些細な音にすら身体はびくつき、『夜』が闇へと転じていく気がした。すがるように周りのシラカンバを見つめ、胸元の笛を握りしめると、弱い自分が内側でささやく。適当な樹を選んで笛を吹いてしまえ、と。
(やだ)
 腕に抱いた帯布をひしとだきしめる。一針一針、カントコトロの森へと――そこにいる御使いへと、想いをはせて縫ったのだ。

 リムセは拾われ子だ。今日という日は十の誕生日ではなく拾われた日に当たる。そのときのことは覚えていないけれど、七年前、一本のシラカンバの根元ですすり泣いていたという。
――お前を拾うことができたのはね、御使い様のお陰なんだよ。
 森の外は霊気が薄く、御使いが姿かたちを保とうとすると魂を消耗する。けれども、かの御使いは森を出て、エムシを呼んだのだという。リムセがエムシと出会えたのは、今生きていられるのは、すべて彼のおかげなのだ。
 けれどその話を聞いてリムセが「あいたいな」とつぶやけば、エムシは必ずこう言った。
――でもね、御使い様の樹を盾樹に選ぶのではないよ。御使いに選ばれる樹は――……

 ふいに、木の根につまずく。力の入らない足はあっさりと崩れ、リムセは顔から地面に突っこんだ。森の地面はやわらかいけれども、氷のように冷たい。霜が降り始めているのだ。いつの間にか、吐く息も白い雲のようになっていた。
 のろのろと顔を上げ、泥にまみれた顔を軽くぬぐう。帯布が汚れていないことを確認し、立ちあがろうとする。けれども、草履の鼻緒が切れていた。それを目にした途端、鼻の奥がつんと痛み、目の裏がかっと熱くなる。草履だけはエムシに言われても新調しなかったのだ。リムセの求める樹は森の奥深くにあると聞いて、はきなれたもののほうがきっと長い時間歩いても足が疲れないだろうと思ったから。
 今日のために考えてきたことがすべて無意味に思えてきて、呻くような声が漏れた。胸元で笛がゆれ、ちぎれた草履の鼻緒が弧をえがいて嘲笑う。リムセは口を真一文字に引きむすんだ。きっと御使いはどこからか自分をみている。ここでくじけるわけにはいかなかった。あきらめてしまったら、腕のなかの帯布も、一針にこめたリムセの想いも、すべてが意味のないものになってしまう。
 リムセは片手で帯布を持ち、ぱん、と自分の頬を張った。胸元の笛を引きちぎり投げ捨てて、ぐっと地面を踏みしめる。進む。かじかむ足など、気にもならなかった。
(もっともっと、奥に行かなくちゃ)
 方向が正しいのかもわからない。けれどリムセは、何かに導かれている気がした。

 *

 どれほど歩いただろう。見上げる空は相変わらず暗いままだったが、寒さは増し、歯の根があわなくなっていた。何度も転び、足は泥まみれで擦り傷だらけだ。吐く息は濃霧のように漂う。真冬に捨てられ拾われなかったことが唯一の救いかも知れないなどと考えながら、ただただ斜面を登る。
「もうすこし、」
 ぽつりと言葉が漏れた。導かれている、呼ばれている。けれど、身体の疲れも限界に達しようとしていた。樹を見つけるのがさきか、リムセが倒れるのがさきか――身体が傾ぐ。どさりとリムセは膝をついた。力が入らない。口の端から乾いた笑いが漏れ、腕の隙間から草履が零れ落ちた。石笛はもはや手元になく、凍む風が高い音を立てて胸元を過ぎ去ってゆく。周囲のシラカンバ達はリムセに対して無言をつらぬき、その守りの力すら秘そうとしている気がした。白く淡いひかりが薄れ、藍が黒へと転じ、闇が足許から忍びよる。
 リムセは、寒さと闇に飲まれて石のようになっていく自分の足先をぼんやりと見つめていた。視界の端に腕にいだいた帯布があった。指先にはたくさんの傷あとが残っている。ふと、自分がここまでやってきたのはただ自分の苦労を報いたいがためだったのでないかと思った。そう思った途端、身体に風穴が空いて、そこからすべてが抜けだしていくような気がした。穴をふさぎ抜けだしたものをかき集めたいのに、体力も気力も底をついていた。ひもじく、こころぼそい。――この感覚を、知っている。うっすらと、覚えている。
 瞼を閉じると、脳裏に白い色がよぎった。断片的な映像が浮かんでは消える。白い衣、白い肌、おさなげな、けれども美しい面立ち。銀色の眸。差し伸べられた、手。
 目を見開く。闇のなか、白の縫い目が浮かびあがる。それは、雪のようでもあり、花びらのようでもあった。ひとひら、ふたひらと、リムセの内側に降りつもる。風穴を、埋めてゆく。身体がふるえ、心もふるえた。ただひとつの想いが、リムセを満たす。

――あいたい。

 まわりのシラカンバがひかりを増す。闇が祓われる。靄が晴れたような感覚とともに顔を上げると、一筋の光が頬を照らした。斜面の上の方から、月光がさしていることがわかる。樹々に光をさえぎられぬ、開けた場所があることを告げている。風がそこへとむかってゆく。
 ふらりと、リムセの足は立ちあがっていた。そして、一歩踏み出す。さらに進む。走る。走る走る走る。足がもつれそうになろうとも、走る。疲れも寒さもどこかへいった。この身体と、腕にかかえた帯布があればよかった。かの御使いの名を知っていたならば、その名を叫んでいた。叫びたかった。
 樹々を抜けると、そこには夜空が広がっていた。蒼い影を装った月の厳かな光と、静謐な銀の星あかりが降りそそぐ。肩を弾ませながら吸いこんだ空気は、森のものと外のものとが混ざりあっている。ひとりになってからというもの聖域に弾かれるような感覚を抱いていたリムセにとって、その空気は胸が痛くなる程にやさしかった。心置きなく深呼吸を繰り返す。
 息切れがおさまるのと入れ替わって、今度は心臓の鼓動が、内側から突き上げるように鼓膜をゆらした。全身の血が、熱くいきおいよくめぐる。すべてが脈打つ。一刻一刻を、身体にきざみつけようとするかのように。リムセは改めて、目の前にあるものを見つめた。

 そこにあるのは、一本のシラカンバの樹。

 そのシラカンバは、大人の男程の高さしかなく、幹も華奢だ。けれどリムセは、その樹から目が離せなくなっていた。胸の奥から、きらめく水があふれだしてくるような感覚があった。その水は大きく波立ち、リムセとその樹以外の存在を押し流す。
 一歩、シラカンバへと歩み寄る。また一歩、近づく。おそるおそる、白い幹へと手を伸ばす。樹皮は固く乾いていたけれど、指先に水の躍動を感じた。なにひとつ言葉がみつからず、リムセはたちつくす。唇のあいまからもれた息がやわい熱をはらみ、シラカンバの淡いひかりと混ざりあう。
 そっと、幹に額を押しあてると、ゆっくりと、染みいるように、自分はこの樹とであうために生まれてきたのだと思った。額をさらにすりよせる。どうしようもなくうれしいのに、これ以上近づけないことがもどかしかった。
 ふいに背後に気配を感じて、リムセはふりむく。
 花がほころぶようにふわりと、わらった。
「みつけた」
 ほろとこぼれた言葉を、もういちど、はっきりと口にする。
「ほらね、あなたをみつけたわ」
 リムセの弾む声とは対照的に、青年の表情は暗かった。放たれた声も、低い。
「御使いにされるのは、」
 目を眇め、くしゃりと顔を歪ませる。
「つがいが見つからないと神に判断された樹だ」
 見ればわかるだろう、と。つづけられた言葉は震えていた。たしかに彼の樹の幹からだは細く、高さもあまりない。立派とは言い難い樹だ。盾樹と人の生きすじが一心同体だとするならば、この樹を選ぶことはきっとリムセにとっては良くないこと。けれども。
 あのね、とリムセはささめく。
「わたし、あなたに会いたかったの。あなたがわたしを見つけてくれたって、エムシばばさまが言っていたから。あなたが覚えていなくても、あいたかったの。ずっと、ずっと」
 とん、とリムセは青年に背をむけて、はねるように樹へと一歩踏みだす。ふわりと広げたのは、藍色の帯布。不格好な白糸の刺繍を目にして苦笑が浮かんだけれど、瑣末なことだった。
 焦ったように駆けよろうとする青年を、顔だけをむけて目で制する。静かに、たずねた。
「わたしの盾樹になったら、あなたは消えてしまう? もうおしゃべりできない?」
「いや、樹からだが朽ちるまではこのままだが」
「よかった」
 それさえわかれば迷う必要はない。リムセは樹とむきあうと、だきしめるように幹に腕を回し帯を巻く。そして、端と端をぎゅっと結びあわせた。ほどけぬよう、強く、しっかりと。やった、と思わず声をもらす。
「ほら、おそろい――」
 自慢げにふりかえれば、ぎゅ、と。やわらかい感触とともに、視界が白く染まった。リムセの小さな身体は、青年の腕のなかにすっぽりとおさまっていた。冷気からかばわれてはじめて、リムセは自分の身体がひどく冷えていることに気づく。
 とくりとくりと、青年の内側から音がする。あ、とリムセは思った。シラカンバの心音。この音をずっとずっとまえから知っている。身体が覚えている。だから、懐かしいと思ったのだ。遠く遠くの記憶のかなた、泣いていた幼子は、今とおなじようにだきしめられ、この音を聴いた。
「音がする」
 リムセがつぶやくと、青年はぼそぼそとこたえた。
「魂が樹と繋がっているのかもしれないな」
 見てみろ、と言われて顔を上げれば、青年の額には布が巻かれていた。リムセとそろいの、藍色の布。
「いっしょだね」
 シラカンバは『あわいの樹』とも呼ばれ、それにはふたつの理由がある。ひとつは、霊樹として神と人との仲介をになうことから。もうひとつは、長寿の人間と変わらぬ年月を生きる、樹木にしては短命な樹――つまり、人と樹のあわいの存在であることから。
 この土地で、人とシラカンバはともに生きてゆく。一人と一本で、ひとつの存在となる。
 伴侶つがいと称するよりももっと近く密な——半身。
「いっしょね、いっしょよ」
 青年の腕のなかでリムセは肩をゆらす。青年は戸惑ったように上からリムセの顔をのぞきこんだ。
「一緒だと、嬉しいのか」
「うれしいよ」
 ちいさな腕を精一杯広げて、リムセは青年をだきしめる。
 ただそこにリムセが求めていたひとがいて、そのひとが今自分をだきしめてくれている。それだけで、見えないひかりが世界をみたした。もしそのひかりが見えたとしたら、晴れた日に雪山から吹き下ろされる粉雪の如く細やかで、静かに軽やかに風に舞いきらきらとしているのだろう。触れることができたのならば、あえかな花弁のようにたおやかで、やわらかいに違いない。
 ねえ、とリムセは口を開きかけ、とあることに気がついた。
「名前、ある?」
「ないな」
「わたしが、付けても良い?」
 ああ、と彼がうなずくと、リムセの口からするりと言葉が滑りでた。
レタル。レタルがいい」
 そのままだな、と青年――レタルが苦笑する。いや? と首をかしげれば、素っ気なく「別に」と返された。しばしの間を置いて、彼は「レタル、か」とその音を舌に乗せる。ひかりがみちる。かがやく。リムセは顔をほころばせた。
「そうだよ、レタルだよ」
 レタル、と。リムセは青年に頬をすりよせ、何度もその名を呼んだ。

――白は聖色。そして、ひかりの色。

 *

 カントコトロは『天つ空』。そこはひかりのつどうところ。
 暗く深い森のなかでひとはシラカンバに光を見いだし、かの森をカントコトロの森と呼んだという。

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